先日 Frank Lloyd Wright の回顧展のカタログを読んでたら、
「人間が人間らしくあるための最重要なことは何か?というような文章に出会った。 もちろん Wright は家を作るときに何を考えるかについて述べているので、 「人間が人間らしく暮せる家」を設計する際に彼の一番根底にあった考え方をこのように言い表したのである。 しかしこれはなんと衝撃的な発言であることか。 この言葉によって彼がどのような建築家であり続けようとしたのかがはっきりと分かると思う。
それは人間としての尊厳を持つことだ」
(Frank Lloyd Wright, Letters to Architects (ed. B. B. Pfeiffer), Press at Cal State Fresno; ISBN: 0912201045)
さて、数学ではどうなのか? Jacobi は、数学は「人間精神の名誉のために」なされると喝破した。 実際には彼は物理などにも造形が深く、いろいろな応用を考えていたと思うが(詳細は調べてない、反省)、 彼の中での数学とはそういうものであったのだろうと思う。
回りくどくなったけど、なぜ Wright の言葉がこれほどまでに今の私の心を打つのか。 それは数学者が数学者であることが徐々に難しくなってきているからだろうと思う。 言い換えると数学者はいまや「数学者としての尊厳」を失いつつあるということだ。
「尊厳」とはいささか大げさだとお考えかも知れないが、そうではない。 最近になって私が体験したり感じたりしていることを少しあげてみる。
比較的よく耳にするのが「数学者は数学をやっているだけでは食べていけなくなってきた」という言葉。 では一体何をやって食っていくのだろうか?
実際「数学」という言葉がたくさんの大学の学科名から消え、代りに「数理科学」だとか「応用数理」、あるいは「数理情報」などという言葉に取って代わられつつある。 学問分野としての数学は消滅しつつあるのだろうか? 科研費の分野としてはまだ残っているが、これが数学でなくなる日が来ないように切に願う。
「数学は役に立たない」という外部からの批判と、内部からの「数学は役に立つ」という反論。 私はどちらにも与しない 。もっとも「数学は数学に役に立つ」というトートロジーには賛成だが。
「数学は難しい」という批判と「難しいことは削減せよ」という社会からの要請があるように感じる。 現在問題となっている、学習指導要領の改訂でもこの論理(?)は大手を振って通っていた。 そんなに「易しい」あるいは「明らかな」ことばかりやって(あるいは教えて)何が面白いのか?
業績評価としての論文数の採用。 「研究をする」ではなく「論文を書く」ことが重要になりつつある。 しかも内容についても既にあげたような「功利的」側面が求められているように感じる。 研究を凝縮してまとめるのではなく、研究の途中経過を論文として垂れ流しにする時代がすぐそこに来ているのではないか? このような「垂れ流し」はある意味で数学の「死」を意味しているように思えてならない。
そして最後に自分自身が「数学者としての尊厳」を全うできないことへのいらだち。 ま、もっともこれは難癖の部類に属する。
かくも数学者が数学者であることは難しい。 加えて独立行政法人化や大学院入試の多様化(要するに入試業務の増加)などの制度面からの締め付けも強まってきている。 建築ができあがってみるとそこには住むものが誰もいないというようなことにならないことを祈る。
Tue Dec 7 16:11:23 JST 1999