いつ頃から「受益者負担」という言葉が使われだしたのか定かではないけれど、ここ10年ほどのことだと思います。 その間にこの言葉は日本社会にしっかり根付いてしまいました。 しかしこの言葉がもたらした変化は劇的に大きいように思います。 日頃から、
「受益者負担」というのは、ぶっちゃけて言えば、恩恵を受けたものがその恩恵に見合った料金を払うべきであるということですよね。
例えば科研費。
科研費をもらう(益を受ける)と何か払わなくっちゃいけない。
まっとうな数学者の考えることは、「じゃ、研究に打ち込もう」ということでしょうけど、求められている支払いは違うんですよね。
業績(論文数)と、書式の整った報告書、そして破綻のない申請書。
そして「社会に役立つ」研究の成果発表。
しかし、そもそも研究費を交付するのになにか見返りを求める必要があるのでしょうか?
ところで
しかし敢えてここで言わせてもらうと
三浦朱門氏の奥さんだって衛星放送を見たりするんでしょうけど、
そこで使われているパラボラアンテナは立派な二次曲線ですよね。
もちろん衛星の技術にだって二次方程式の解法が使われている。
だいたい電気回路の電流とか計算しようとすると必ず二階の微分方程式が出て、これを解くにはどうしても二次方程式を解く必要がある。
ま、ほとんど全部の家電製品には二次方程式が用いられていますよね。(笑)
もちろん三浦さんの奥さんは
このような類いのことは例えば磁気共鳴の断層写真のラドン変換にしてもそうだし、
暗号技術への初等整数論の応用にしてもそうだし、
気象予報にも流体の方程式が使われ、
航空機の設計での複素函数論の応用とか、
比較的高度な数学の適用例も多数ある。
あ、でも表現論はどこにも使われてないな。
全く役に立たないかも (^^;;;
だいたい数学がないと物理はできないでしょう。
そうだそうだ、表現論は少なくとも量子力学には使われてるんだっけ、安心安心。
(ってホンマか、オイ)
なにしろ数学という土台の上にたくさんのものが載っているわけです。
こんだけ役に立ってるんだけど、しかし「数学は役に立たない」と言われるのはなぜか? それはやはり
同僚の話だけど、講義に出席している学生で、「先生その定理は一体何の役に立つんですか?」とか、「これは経済に役に立ちますか?」という質問を毎回する生徒がいるらしい。ありがちなことだけど、その執着ぶりは少し異様です。
そこには「習った以上、そこに努力と、時間を資本投資したのだからどこかで役に立つ(利益を回収できる)はずだ」という思い込みがあるように思います。
無知なものからは料金を徴収するシステムにすると、こういう学生さんに対しても、
「受益者負担」という言葉は「無償の高貴なもの」とか「見返りを求めない投資」、「人類共通の財産」、 あるいは「役に立ちそうもない好奇心」、 そして「人間の尊厳に関わるある種の高貴な行い」というものを否定します。 何よりも悪いことに、これは
そしてついには、価値観の逆転現象までが起ります。 つまり「益を受けたので負担する」のではなく、
いったい我々がギリシャ人だとか既に滅んだ文明を評価する基準がどこにあるか、 それは「受益者負担」といういかにも貧困な発想といかに相容れない評価になるかということを、 改めて声を大にして主張する必要があるように感じています。
[Tue Dec 14 12:44:52 JST 1999]