数学不完全ガイダンス

日頃からそうは思っていたけど、こうはっきり書いていただけると気持いいですね。

論理は数学を正確に伝える手段にすぎない。
数学は論理のはるかかなたに存在する。

和田秀男(「数学のたのしみ No. 15」より)

言葉がしゃべれない、あるいは日本語が書けないと小説が書けないのと同じで、 論理的な思考抜きにして数学は表現できないし学べない。 でも論理的に証明を理解して行くと数学ができるようになるかというと全然そうではない。

それっていつも言っている「定理の証明は大事です」とは違うじゃない、という突っ込みを受けそうだなぁ。 小説は教えれないけど、文法は教えることができるというのと同じで、 すくなくとも筋道だって証明できないと数学できませんからねー。 計算にしても同じ。

もっとも定理の証明の場合には、「よい証明」であれば、その定理のイメージが伝わるし、 証明を行なうことで定理に対する理解と尊敬の念が深まるという効用はある。

さて、私の居るところは「数理基礎論講座」と呼ばれていますが、この名前が災いしてか なぜかゲーデルをやりたいという学生が数多く居る。あるいはこれは一般的な傾向なんでしょうか? 基礎論というと不完全性定理ということなのかな、と思っていますが。 やっぱり名前が悪かったんだと思いますね。

で、このゲーデルをやりたい学生たちは一様に不完全なのは数学だと思い込んでいる。 でも違うんですよね。

不完全なのは形式言語(あるいは述語論理?)

です。 これも「数学」とははるかに隔たりがある。

これについては、面白い話がある。 ゲーデルはヒルベルトに対抗したかのように言われるが、実は

ヒルベルトの根性のなさを叱った

のだという話。 形式言語で数学の無矛盾性を証明しようなどという「数学の矮小化」をしてはいけない、 というのがゲーデルの言いたかったことだというんですが、ま、もちろん真偽のほどは定かでない。

じゃ、数学って何なんですか? と聞かれても困る。 偉そうなこと書いたけど、数学者としての自己確立に困難を感じている私の答えることではないような気がしますね。 あと何年残ってるかわからんけど、ゆっくり見極めてみようと思う。

Thu Oct 21 16:17:35 JST 1999